毛利時代には石見国大森銀山の代官を務め、後に佐渡金銀山の開発に中心的な役割を果たした宗岡弥右衛門の墓。
宗岡弥右衛門は、毛利時代には石見国大森銀山の代官でしたが、慶弔8年(1603)大久保長安の下、吉岡隼人(出雲)らとともに佐渡へ派遣されました。
慶長9年の史料にその名が記録されています(相川郷土博物館所蔵文書)。同11年には山方役に任ぜられるなど、佐渡金銀山の開発に中心的な役割を果たし、その功績により、徳川家康に謁見し、「佐渡」の称号を受けます。
また、宗岡は銀山を支配しましたが、『伊勢屋九郎兵衛文書』には、宗岡佐渡が白糸の取引をしたという史料も残っています。慶長18年佐渡で没しましたが一族は石見に戻りました。宗岡佐渡守の墓所は旧順勝寺境内にあります。