逆修塚は、生前に自分の法名を付けて建てた墓のことで、功徳(くどく)が大きいといわれています
大久保石見守長安は、もともと甲斐武田氏の蔵前衆として活躍していましたが、武田氏滅亡後、徳川家康に見いだされ、初代石見銀山奉行に任じられました。関が原の戦いに勝利した徳川家が石見銀山を直轄することになった慶長6年(1601)、初代銀山奉行となり、その卓越した知識と経営的手腕によって、江戸時代初期のシルバーラッシュをもたらしたことで知られています。
彼の開発した大久保間歩は、石見銀山では最大規模を誇っています。 長安は斬新な鉱山経営によって、石見銀山の黄金時代を築きあげ、 1603年に佐渡奉行、次いで伊豆金銀山奉行を兼ね”天下総代官”と言われました。これらは全て兼任の形で家康から任命されています。 長安が直接在任地へ赴くことはほとんどありませんでしたが、石見へは都合6回も訪れたことからも石見銀山を重視していたことが伺えます。異例の昇進から察するに、家康が長安の経理の才能を高く評価していたことが窺え、全国の金銀山の統轄や、関東における交通網の整備、一里塚の建設などの一切を任せていたのです。
しかし晩年に入ると、全国鉱山からの金銀採掘量の低下から家康の寵愛を失いはじめ、代官職を次々と罷免されていくようになりました。不幸が相次ぐなか1613年4月25日、卒中のために駿河において69歳で死去します。 長安の死後、生前に長安が金山の統轄権を隠れ蓑に不正蓄財をし、そのうえ謀反を企んでいたという理由で、長安の7人の男児と腹心は全員処刑され、その家財は残らず没収されました。しかし長安が不正蓄財を行っていたという証拠はほとんどなく、近年では幕府内における権勢を盛り返そうと図っていた本多正信・正純父子の陰謀とも言われています(大久保長安事件)。
初代奉行として卓越した知識と技術を残した大久保石見守長安が、慶長10年(1605)に建立した正覚山大安寺境内には、墓碑(逆修墓)と、寛政6年(1794)に事績を顕彰して建てられた紀功碑と五輪墓があり、温泉津町の愛宕神社(あたごじんじゃ)、恵洸寺(えこうじ)にも逆修塚(再建)が残されています。